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津軽浪岡(津軽北畠)氏略史

概  略

主な系図集

調査のきっかけ

津軽浪岡氏とは?

津軽浪岡氏の系譜

家紋の話

一族の人口

KUBOの家系城郭研究所

北畠顕家像

浪岡姓分布図


1.母方の先祖の津軽浪岡氏と母体の津軽北畠氏関連の略史です。

   浪岡氏とは、21才で戦死した北畠顕家の子孫が、陸奥の元国司、名門北畠の出自をバックに津軽の新参土豪として、再起を図ったものといわれているが、もともと在地の浪岡氏の娘を娶り浪岡を継いだとも伝えられている。南部氏の支援のもとで一時はかなりの勢力を誇ったが、内紛から結局自滅し最終的に大浦為信に滅ぼされ、浪が岡に上がって消滅するように、一族は離散した。それでも津軽、南部、秋田藩の中でそれなりに命脈を保ち、現在でも系譜は絶えることなく続いている。

   しかしなにぶん昔のことであり、戦国時代は下克上、政略結婚、養子、改名、滅亡などの連続で100%正しい系図などあり得なく、諸説紛々であり、捏造、偽系図も多いだろう。例え系図は正しくとも血統は繋がっているかどうかでさえ定かでない。常に残るのは勝者の歴史で、敗者のものはひっそりとアングラの世界で語り継がれる。浪岡北畠も例外ではない。

   水戸黄門が大日本史を編纂する際、津軽家は北畠を滅ぼしたいきさつが書いてある書物を城内はもとより神社仏閣にいたるまで徹底的に焚書した。津軽為信が豊臣秀吉に津軽の地の所領安堵をもらった際に、昔から津軽は津軽家の領土であったとウソをでっち上げ朱印状を掠め取ったが、この津軽を簒奪したいきさつが不当なものであることが知れて廃藩になることを恐れた、と言われている。この津軽氏の大蛮行によってこの時代の資料がなくなり津軽の歴史の一部は極めてわかりにくくなり、我が浪岡北畠の歴史も諸説紛々する原因となった。

   それでもルーツを探るのはロマンである。どうせ100%の真実は誰にもわからなく、もはや歴史推理小説なのだから!!

2.津軽浪岡氏と津軽北畠氏関連の伝えられている主な系図と管理人の仮説です

   北畠関連の系図は、津軽家の焚書のせいで正しく伝わっているものは皆無だが、各地に落延びた各子孫毎にひっそりと伝承された私系図はかなりある。系図の概要はサイト管理人の調査の結果、北畠系と浪岡系の2つの系図グループに分類できることがわかった。しかしグループの中でも細部がかなり異なる。落延びたためそれだけ伝承が途切れているのだろう。
   ここでは子孫の端くれであるサイト管理人の権利で、独断と偏見による独善的な、こうあって欲しい、という仮説をたてさせてもらった。またあまりにも関係が深い安倍/安東氏の系図も一部列記した。

仮説

   浪岡氏とは、通常言われているような北畠顕家の子孫の家系として発生したのではなく、 俘囚の長安倍/安東氏の血を濃く受け継ぐ、滅び去った奥州藤原氏の生き残りの家系として、 秀衡の6男頼衡を始祖として発生したものではないか。しかし4代目秀種の娘と顕家の間の庶子 顕通が浪岡を継いだ事に始まり津軽北畠の分家扱いとして急速に北畠化していったものと推測できる。 しかしあくまで浪岡本姓であり、北畠とは区別されていたのではないか。だからこそ津軽浪岡氏は 浪岡姓を連綿と受け継いできたものと考えられる。山崎、水木、袰綿など姓を変えて生き延びてきた 他の北畠一族が、明治維新時に一斉に北畠に復姓したにもかかわらず、復姓をしなかった理由は まさしく浪岡が本姓だったからであろう。自分好みに解釈すれば、我が津軽浪岡氏は公卿北畠の 子孫というより、関東の源氏が台頭する前に坂東の覇者であった藤原系の豪族で武勇で鳴らした 下野の住人、俵藤太こと藤原秀郷を始祖とする武家としての秀郷流藤原氏と、新興武家として 坂東奥州の利権を狙った源氏と闘った俘囚の長安倍氏との合作である、奥州藤原氏が成り立ちである、 かもしれないことに、なんとも感銘を受ける。北の血を受け継いでいる事がなんとも嬉しい。 自分自身中央で発生した公卿の子孫よりは、地方で独自の文化を誇った反骨武家の子孫でありたい、と思う。

参考サイトと書物は
「KUBOの家系城郭研究所」の中の「日本史」の中の、「滅びた?名族シリーズ」の浪岡(北畠)氏
伊勢北畠氏の歴史を語る、子孫の有馬氏の「北畠氏学講座」「浪岡北畠氏の簡略な紹介」
家紋がわかる「武家家伝_浪岡氏」
六戸を中心にした北東北の歴史を語る「都母の国」の「波岡北畠氏の滅亡」
北畠の家臣団がわかる「蓬田村議会/蓬田村史」の 「津軽氏の統一以前の北畠氏と蓬田城主」
家紋World/戦国武鑑の 「浪岡北畠氏」
叔父である津軽浪岡氏16代目の「当主」の自家本「津軽浪岡氏由来記」

3.調査のきっかけ

    浪岡氏の調査をするきっかけは、下記のようないろいろな疑問を持ったからです。資料が無いのは、全て津軽家の焚書という愚行のせいで、子孫が悩むことになった。これが滅んだ家系の宿命!

・何故、戦乱に明け暮れ21才で没した顕家に、沢山子供がいるのか(伝えられるだけでも6人)?
   言い伝えの子供を全部足すと、顕家は紅顔の美青年/花将軍とは思えない程精力家になるが?
   いくら元服年齢が早く、現代より早熟であった時代にしても多すぎる。せいぜい2−3人か?
・浪岡氏は北畠一族の中でどのような役割を果たしていたのか?
   浪岡北畠氏は「浪岡」を名乗ったのか、北畠を名乗っていたのか?
   浪岡氏なるものが本当にいたのか?北畠とは別にいたのではないか?
・世にあまり知られていない顕通/顕康系図は浪岡氏の系図ではないのか?
   浪岡築城の前に居住したという源常館を守った顕忠は、顕通系とも言われ浪岡顕忠だったのか?
・明治維新時に北畠に復姓した一族がいたが、滅んだのではなかったのか?
   津軽為信は三代に渡り、北畠一族殲滅のため南部や秋田にも刺客を放ち、徹底作戦を行った。
   何故、山崎も水木も津軽の中で存続できたのか?
   山崎と名前を変える程度のごまかしが本当に通用したのか?
   館野越は弘前の目と鼻の先程度の距離である。本当に津軽家は見逃したのか?
   津軽浪岡氏は何故始祖顕則が落延びた袰綿から津軽に戻ったのか?何故戻れたのか?
   その時期はいつか?きっかけは何か?戻ったのは誰の代か?
   初代浪岡武左衛門は津軽藩士であったが、親の顕則自身は袰綿から戻れたのか?
・何故津軽浪岡氏は北畠に復姓しなかったのか?
・何故三春浪岡氏は浪岡に復姓したのか?何故北畠ではなかったのか?
・となると浪岡と北畠は本当に同族なのか?
・袰綿氏とはどんな関係なのか?
   顕則と一緒に落延びたと言われる具氏は顕則本人か、子の孫九郎瀬左衛門か?
   袰綿に残った袰綿氏は何故北畠に復姓したのか?浪岡に復姓すべきではなかったのか?
・家/血筋を何よりも大事にする当時の社会環境で「浪岡」「波岡」「行岳」は本当に同じだったのか?
   違うからこそ、三春浪岡は「浪岡」を、津軽浪岡も「浪岡」を選んだのではないか?
・厚岸波岡氏は何故「波岡」を選んだのか?浪岡の分家だったからなのか?
・川原御所の顕信−親能系の子孫は何処に行ったのか?滅んだため具信が御所を再興したのか?
・浪岡/波岡/袰綿に関係する北畠の一族で重臣の顕忠は誰の子で誰の親だったのか?
・顕則、慶好、顕佐は本当に兄弟だったのか?慶好は何故「慶」で何故「顕」を使わないのか?
   顕佐は宗家顕村の娘の婿養子になったので、子孫は宗家の北畠に復姓したというが本当か?
   慶好は実は顕村の弟で、顕村の養子になり後を継いだので宗家というが本当か?
     宗家なら「北畠」ではないのか?何故宗家に2通りの姓があるのか?
   顕則は顕継の子か?顕継は顕村と言う系図もあるが本当か?ならば津軽浪岡家が宗家か?
   顕則は顕忠の子か顕継の子か?
     弘前藩士古今由緒弁傳記集成では浪岡御所家族と書かれている
     ならば源常館の主であった顕忠の子ではないのか?
   では顕通系とは、顕継とは一体どんな家系なのか?
・初代浪岡武左衛門は津軽家家臣の弘前藩士古今由緒弁傳記集成等にも浪岡御所家族の顕則の
 子と明記されている。子孫であるにもかかわらず、何故浪岡町の中世の館など関係の研究に
 一言も言及がないのであろうか。
・当家の口伝では津軽浪岡氏には剣術の指南がいたが、どこで習ったのか?流派は?
・奥州藤原氏は何故安倍と強い姻戚関係を結んだのか?
・北畠/浪岡と安東は入嫁を繰り返し姻戚としてかなり密接な関係であったが、
   何故これほどまでに安東と強い関係を築いたか?
   それは浪岡が安倍の血を濃く引く奥州藤原の末裔だったからか?
・萩の局は浪岡秀種の娘と伝えられ顕家に嫁いだとされているが、
   津軽浪岡氏の口伝では安東から入嫁したと伝えられている、どちらが真実に近いか?
・それほど近い安東の鹿季が顕家の弟の顕信の次男で秋田城介だった守親を滅ぼしたのは何故か
   それは弱肉強食で近親と言えど戦った戦国時代だからなのか?
   守親が南朝で、鹿季は北朝方だったからか?
・津軽北畠は始めは始祖顕家の「顕」を名前に使っていたが、後代では伊勢北畠系の「具」を使った
   (幼名は顕を使っていたが)これは伊勢と津軽で交流があったからなのか?
   これは先に滅びた北畠嫡流であるはずの津軽北畠より、後まで国司で残った伊勢北畠の方が
   本家扱いされたからか?血統では津軽北畠が北畠の嫡流であることは疑いようがない。
・伊勢北畠は有馬家に養子に入り有馬を名乗り、明治維新時も北畠に復姓していない。
   これは自ら北畠嫡流ではないことを認め、本家を放棄したからではないか。
等々.....他人から見ればどうでも良いことだが....

   これらの疑問のいくつかを解くのは、顕家の庶子と伝えられている顕通の「顕通−顕継」系図(浪岡系図と思われる)である。この系図は浪岡/波岡/袰綿の関係を示めしているが、ほとんど無視されている系図である。
   もう一つは、「北畠氏学講座」で示されている伊勢北畠の末裔と称する「有馬家の家伝」である。この家伝によって津軽浪岡氏が「浪岡姓」で袰綿から津軽に戻れた理由が初めて理解できる。また一族の剣術が伊勢北畠を受け継いだ伊勢新刀流であったことも容易に推測できる。

しかし何故先祖の事を調べるのにこれほど苦労するのか、全て津軽家の焚書のせいである。しかしその津軽家が津軽浪岡氏や、水木氏、(山崎氏も?)を残したことも史実である。複雑!!



4.津軽浪岡氏の成り立ち

  上図は当サイトとの管理人が、子孫の端くれのそのまた端くれの権利で、先人の説から勝手に推測する略系図である。顕家の子孫は「浪岡系」と「北畠系」にはっきりわかれる。しかし浪岡系の始祖が誰かははっきりしない。伝承を集めると藤原頼衡になる。奥州藤原氏の3代目秀衡の6男で義経擁護派であった頼衡は反義経派の4代目泰衡と対立し兄弟間の抗争時に浪岡に落ち延び、浪岡右京大夫を名乗ったといわれる。その曾孫秀種の娘が顕家の子供(一男一女)を世に送り出している。男子は顕通となり、女子は安東氏に嫁いでいる。しかも奥州藤原氏初代の清衡の母は俘囚の長安倍頼時の娘である。2代目基衡の妻も安倍宗任の娘(3代目秀衡の母)である。

   つまり浪岡氏は東北の俘囚の長であった安倍氏(後の安東氏→秋田氏)、奥州藤原氏と極めて近い関係であったらしい。後に浪岡北畠末代の顕村も秋田愛季の娘を娶っている。次男慶好が安東(後の秋田)に逃れ、安東氏の後身の秋田氏から極めて厚遇されたのもこれで良く理解できる。となると、この伝承は意外に信憑性が高そうだ。とにかく、北畠一族の一系が浪岡を継いだことは間違いないだろう。しかも北畠が津軽に移住したかなり早い段階にである。顕通が第一号ではなかったか。しかもことあるごとに北畠の本流から浪岡に入っていたと思われる。血統はかなり近かったはずである。だからこそ顕忠の3男の顕佐が宗家の顕村の娘婿として養子にはいってもおかしくなかったのだろう。つまり浪岡氏とは奥州藤原氏と北畠氏の作り出した、それなりに守る価値のある家筋だったのだろう、しかし時代が下がるにつれて徐々に北畠の分家としての色彩が強くなっていったものと考えられる。
   この顕忠は浪岡顕忠を名乗っていたのではないかと思われる。また源常館1500石の当主として元老として北畠一門を支えていたようだ。管理人は実はこの顕忠が津軽浪岡氏の始祖ではないかと考えている。

  津軽浪岡氏がどうして北畠氏を滅ぼした津軽藩に仕官したかは、今となっては推測するしかないが、過去帳や北畠氏学講座から類推すると;始祖の左近顕則は浪岡御所滅亡時に17才で一族の具氏とともに袰綿(ほろわた)に逃れ、先ず南部藩に400石で任官したことが伝えられている。
  一方、当時織田信長の伊勢北畠家(顕家の弟、顕能が伊勢の国司として北畠本家を継いだ)殲滅作戦の中で追われた伊勢北畠本流の北畠昌教は、海路逃れ秋田の角鹿で再興を期して家臣団を興した。その後、津軽家とともに東軍として関が原を戦った縁で津軽家の客分として迎えられ、最終的に浪岡騒動後一族が離散し主のいなかった浪岡北畠氏ゆかりの浪岡に入った、150石と伝えられる。

  このとき各地に離散していた顕家の子、顕成系の浪岡一族、顕家の弟,顕能系の浪岡一族、有馬北畠系の一族などが浪岡に入った。顕則もこのとき顕成系浪岡氏として南部から戻ってきたのではないか、と推測できる。もしこの時に、次男慶好が逃れた秋田藩が常陸に転封になってなければ、慶好系も浪岡に帰参したかもしれない。
  この北畠昌教の子孫は有馬家に入りのちに有馬北畠家として公卿に復帰し、京都に戻り明治維新を迎えている。また伊勢新刀流剣術の師範として武闘派公卿としても知られている。

  ともかく南部藩に仕官していた顕忠の子、左近顕則もしくは子の武佐衛門は紆余曲折の上、津軽藩に任官し弘前の浪岡武左衛門家として明治維新まで続いた。当サイトの管理人の母方の実家である武左衛門本家は北海道岩内町に移り、現在は当主の叔父は東京に在住する。菩提寺は弘前の京徳寺にあり先祖代々を祭っている。16代目当主の叔父が、先年朽ちかかっていた代々の墓を改修した。


5.津軽浪岡氏の系譜と他の浪岡北畠一族との関係

   津軽浪岡氏の系図を伝えた本家に伝わる古文書は、江戸時代に2回の火事にあい、戦後岩内の大火で焼失したが、幸い残った古文書/口伝、菩提寺の弘前市の京徳寺の過去帳と弘前藩士古今由緒弁傳記集成等の資料で顕則以降は下記のように再構築できる。

始祖:浪岡大貮介顕則(左近顕則)−−初代武左衛門−−二代武左衛門權六−−三代武左衛門權六−−四代武左衛門甚藏−−5代武左衛門−−6代武左衛門−−7代武左衛門−−8代彌藏−−9代運助が弘前藩士として明治維新を迎える。15代目から北海道岩内町居住、現在16代目当主は東京に在住(当サイトの管理人の叔父)。当家は江戸時代末期には勘定奉行を務めており津軽藩のなかでもそれなりの処遇は受けていたようである。また剣術指南をしていた一族もおり、前述の伊勢新刀流剣術を伝えた伊勢北畠末裔の有馬北畠が京都に公家として移ったあとを、同族として伊勢新刀流剣術を受け継いだものだろう。

  始祖顕則(一説には津軽浪岡氏2代目)は浪岡御所家族で、その子初代武左衛門は津軽藩に仕え、百石与力だったそうだ。また顕則は前述のように天正6年の浪岡騒動のあと17才で袰綿に逃れた記述があり、その後400石で南部に召し出されている。しかし2代目とする伝承もあり、北畠一族でゆかりの源常館をまかされていた顕忠の長男顕則が浪岡本家の顕継の養子になったのではないかと推測できる、となると初代は顕忠だろうと考えたい。
  同族の袰綿氏との関連は明らかではないが、当然同族であることから身を寄せたはずである。ある系図(顕通系系図)では顕則と袰綿瀬佐衛門孫九郎は親子とされている。つまり袰綿瀬左衛門と浪岡武左衛門は兄弟であるという可能性がある。別に憶測すると系図の知れない4男といわれる顕行は袰綿に留まり袰綿家に入り袰綿瀬佐衛門を名乗ったのかもしれない。いづれにしても袰綿氏と浪岡氏は同族の中でもかなり近い関係にあったのだろう。
  また現在北海道に在住する、やはり同族の波岡氏との関係もハッキリしないが、顕継系図では顕忠と波岡の先祖の吉左衛門は兄弟となっており、やはり南部に仕官している。

  現在ニ戸に在住する二戸浪岡氏との系図上の関係は全く明らかではないが、3つの仮説が考えられる。1.浪岡北畠初代顕成と二代目顕元は南部の庇護を受け南部領に住んでいた事からその時代の子孫がその地に留まった(但し北畠を名乗っていたので違うだろう、むしろ袰綿氏がコレではないかと考えられる)。となると2.南部時代の顕則の子孫か、3.やはり南部家家臣だった吉左衛門家の子孫(但し波岡姓なので、違いそうだ)か。更に想像をたくましくすると、袰綿に入った瀬左衛門の子孫が浪岡姓に戻したのかもしれない


6.家紋の話

  挿絵の家紋は津軽浪岡家の家紋「丸に武田菱」である。現在の北畠は笹竜胆であるが元は村上源氏の割菱(後に武田菱と呼ばれる)であった。浪岡北畠は笹竜胆と五七の桐らしい。三春の浪岡も五七の桐らしい。
  何故割菱を止めたのだろうか。顕成、顕元親子が庇護を受けた南部氏(武田系)が同じ割菱を使用していたため遠慮をして止めたのだろうか。何故津軽浪岡氏が丸に武田菱(割菱)なのだろうか、恐らく顕則が庇護を受けた南部氏が同じ割菱を使っていたため、丸で囲み区別したのではないかと思われるが、顕則の時代は既に割菱を使っていなかったのではないか

  憶測すると津軽浪岡氏の始祖は割菱を使わなくなった時代の顕則ではなく、使っていた時代の、異説にある顕家の子の誰かか庶子顕通の系統とも考えられ、北畠を示す割菱を使い続けるために支援をしてくれていた南部と区別するため丸で囲んだのではないか。
  では五七の桐はどこから来たのだろうか?まだ調査が足りないのでわからないが、いずれにせよ笹竜胆や五七の桐を使う浪岡北畠氏と割菱を使う浪岡は同じ顕家系であってもその後の系統が違うのだろう。波岡の家紋は未調査である。


7.浪岡/北畠一族の人口と明治維新時の復姓問題

  「なみおか」は「浪岡」と「波岡」の2つの書き方がある。もともと同じだが天童丸系は波岡を使ったらしい。また浪岡系の伝承では波岡系は3男の家系、つまり分家筋になる。三春秋田氏が浪岡に復姓する明治維新まで東北で「浪岡」の字を用いるのは我が津軽浪岡家だけであったと思っていたが、2000年の二戸市長選挙に市議の「浪岡XX」氏が立候補していたことから、南部藩にもそのまま留まった浪岡一族がいたことは確かなようである。一度会ってみたいものだ。

  現存する浪岡や北畠の人口を調べてみた。日本の姓名を調査するWebサイトが2つある。ここによると浪岡姓の人口は日本で約3100人、北畠姓は3900−4000人である。意外に多い。長い間に子孫が広がっているようだ。現代の1家族平均4人なら1000家族は存在することになる。戦前祖父祖母/父母の時代は子沢山で10人は当たり前だった。しかし現在に比べると成人率は悪いため、結局はせいぜい5−6人で今とたいして変らないのではないか。また養子に出すのも当たり前の時代だった。本家を守り、分家をなかなか許さない時代でもあった。例えば顕家から現当主で28代目になり、1代当り24年平均である。各代で男子が1人あり子孫を残したとすると、12代(約280年)で子孫は2560人になる、。しかし少なくとも津軽浪岡氏は男系が極めて弱かったため、末裔の人数は極めて少なく、浪岡を名乗っているのは20人程度である。とすると残りの3090人は誰の子孫なのだろうか?顕則や慶好の子孫だけでは当然ないと思うのだが。一度「写録宝夢巣(たずね人)」や「NTTハローページ」でじっくり調べたいと思う。とにかく北畠にしても隠遁や追っ手を避ける為改名していたため人数は少ないはずである。
  但し、北畠を姓とする全員が親房/顕家の嫡流の浪岡北畠と顕能系の伊勢北畠ではなく、北の畠という在りそうな単純な苗字のため、明治維新時に新たに名乗った家系もある。例えば、明治維新時に公卿の久我氏の四男が北畠を名乗っている。他にも法隆寺の寺侍系の北畠氏や僧侶の北畠氏の家系がある。名乗った理由は定かではないが、この3家系はいわゆる親房/顕家系北畠とは全く無関係であり、また北畠を名乗って新しいので、子孫の数はそれ程多くはないだろう。

  波岡姓は、約780人現存しているが全員が奥州北畠系ではなく、越中、伊予など発祥が異なる偶然同姓を名乗った系統も存するようだ。奥州波岡の子孫は現在では北海道の厚岸や苫前に多く居住し僧職につくものが多い。

  また北畠一族で陸中国閉伊郡袰綿村に居住した袰綿(ほろわた)姓は約40人が現存している。この袰綿氏の中の2氏が明治維新時に北畠姓に復姓した事が岩手県の記録に残っている、という事は袰綿氏はあくまでも北畠であることを代々自負しており、「心ならずも袰綿」を名乗ったことを如実に示していることになる。この復姓北畠も4000人に入る。となると現存の約10世帯は何故北畠に復姓しなかったのか?袰綿内の分家だったからか、調べてみたい。ただ疑問点もある。山崎氏は津軽氏の追っ手の目をそらすために下野し姓をかえたため、北畠を本姓として伝えてきたが、袰綿氏は南部領であるため、津軽氏の追っ手を心配する必要は無かったのではないか?。にもかかわらず北畠を本姓として伝え袰綿に改姓した理由は?北畠が南朝のシンボルで、北朝系の南部氏に対する遠慮か警戒からか?それほど津軽の追ってが藩を超えて追ってきたからか?今となっては良くわからない。

  では何故、浪岡と波岡は北畠に復姓しなかったのであろうか? 右近慶好の子孫の三春秋田氏は何故北畠ではなく浪岡に復姓したのだろうか?
  伝えられている、「もともと在地の浪岡氏の娘を娶り浪岡を継いだ解釈もある」の「浪岡」を継いでいたからだろう。恐らく、浪岡を継いだ顕忠(顕村の従姉妹)の長男顕則と次男の慶好は浪岡を引き続き名乗り。津軽北畠嫡流の顕村に男子がないため、3男顕佐が顕村の娘を娶り北畠を継いだのだろう。このため顕佐の子孫で在野に下り「心ならずも山崎」を名乗った一族は明治維新で勇躍北畠に復姓した。
  しかし浪岡は「心ならずも名乗った」のとは異なり元々連綿と続く由緒がある家系のため、復姓などする必要はなかった、と推測できる。となるとやはり浪岡氏の先祖は一体誰か?何処が発祥の地か?是非知りたいものだ。一説にある藤原秀衡の六男で義経派の頼衡が反義経派の次男で兄の泰衡との争いを避ける為、行岳に逃げて浪岡右兵衛大夫を名乗りその娘が顕家の子供をもうけた、と伝えられている。これが本当なら浪岡が由緒ある姓となり、こだわった理由が理解できる。むしろ藤原に復姓しても良かったか!!

  やはり波岡一族と伝えられる兼平氏と大浦為信の家老といわれた兼平氏との関係も気になる。また行岡氏や時岡氏も顕家の子孫と伝えられるが、何しろ顕家は21才で戦没した割りには子供が多過ぎるのが難点である。

浪岡北畠関連姓名の人口
  7000傑苗字館 日本の姓写録宝夢巣6備  考
 順位 推定人口推定人口 世帯数電話登録人数 
北畠3219 400039001001939親房系以外の北畠を含むが、多過ぎる
浪岡3830 31003100778725北畠浪岡氏だけでは多過ぎる!
波岡9491 780--196183このくらいの人口なら納得!
袰綿41797 40----9何故、北畠に復姓しなかったのか?
 
行岡16161 320--8165「ゆきおか」と読むらしい。
時岡4456 25002400613532北畠系だけなのだろうか?
兼平2618 5300520013201184波岡系はこの中でどのくらいか?
水木2638 5200520013091193水木北畠系はこの中でどのくらいか?
有馬548 364003590090918168伊勢北畠系はこの中でどのくらいか?
山崎21 488000482100121564111639北畠系はもういないと思うが?

人口の出典3サイト
「日本の苗字7000傑」
「村山忠重の苗字館」

日本の姓の全国順位

袰綿氏復姓情報
「近世こもんじょ館」の「QあんどA館」



8.下記の説明文は
「KUBOの家系城郭研究所」の記載をそのまま写したものです

 浪岡(北畠)氏は、南朝の重臣北畠親房・顕家の子孫になります。北畠氏が浪岡に移った時期は諸説があり定かではありませが、浪岡右兵衛大夫の娘が顕家に仕えて顕成を生み、その縁で浪岡に入ったとされています。

 浪岡における北畠氏は浪岡御所と呼ばれ、後に浪岡入りした顕家の弟顕信の子守親の子孫は川原御所と呼ばれました。また顕家の末子で出羽天童城に拠ったとされる北畠天童丸も浪岡入りしたといわれ、この辺りの関係ははっきりしていません。

 北畠氏ははじめ東山根の城館にいたようですが、顕義の代に浪岡城を築き、ここに移ったとされます。戦国期には大光寺氏・大浦氏(後の津軽氏)とともに津軽を三分する勢力となりましたが、永禄5年(1562)川原御所の北畠具信が浪岡御所北畠具運を殺害する川原御所の乱が起こると、浪岡北畠氏は急速に衰退し、天正6年(1578)大浦(津軽)為信の攻撃により浪岡北畠氏は滅亡しました。(天正18年に滅亡したという説もあり)

 浪岡北畠氏が滅ぶとその一族は各地に四散しました。顕村の従兄弟顕忠の子右近慶好は、秋田安東氏を頼り、秋田采女季慶と名を改め、その子孫は陸奥三春藩秋田家の一門として遇され、代々御年寄などの重職を歴任し、藩政を支えました。維新後は浪岡姓に復し三春町に在住しているとのことです。(三春浪岡氏)

 慶好の弟顕佐は顕村の娘を娶り、山崎を称して館野越に住し、庄屋・医者として江戸時代を過ごしました。顕甫の子の代からは二つの流れに別れましたが、顕貞の系統は弘前藩医として活動しました。両統とものちに北畠姓に復し、現在は顕貞の系統は東京に、顕国の系統は館野越に在住とのことです。(館野越北畠氏)
 川原御所北畠具信の系統は溝城(のち水木)を称し、早くから津軽氏の支配に服し、江戸時代を過ごしています。明治には入り再び北畠姓を称し、現在は札幌在住のようです。(札幌北畠氏)

 その他に、盛岡藩南部家に仕えた系統もあります。北畠顕家の末孫という北畠中務具氏は閉伊郡袰綿(ほろわた)村に移り、その子直顕は袰綿氏と称し南部信直に仕えました。その子孫は袰綿左仲家・袰綿覚左衛門家に別れました。

 また顕家の末子北畠天童丸の末孫という波岡勘解由顕元は南部信直の父石川高信に仕え、その子吉左衛門の代から信直に仕えました。その子孫は波岡吉左衛門家・波岡庄次郎家・波岡勇右衛門家・兼平金平家などに別れました。

 一方、弘前藩津軽家に仕えた浪岡氏もあります。津軽浪岡氏は、顕忠の子左近(大貳之亮)顕則を始祖とし、その子浪岡武左衛門を初代とします。初代武左衛門は百石を知行し与力をつとめ、幕末の当主運助は勘定奉行をつとめましたが、現在御子孫は東京在住とのことです。

  ※三春浪岡氏については筈衛さんから、津軽浪岡氏については細井さんから情報を頂きました。    どうもありがとうございます。
   また三春浪岡氏・館野越北畠氏・札幌北畠氏については浪岡町の「中世の館」の展示を参考にしました。


9.紅顔の美少年といわれた北畠顕家卿の銅像と挿絵、藤原秀郷像と清衡像















左から
1.三重県美杉村にある伊勢国司であった北畠氏館跡庭園内の「花将軍 北畠顕家公銅像」
2.福島県伊達郡霊山にある霊山神社内の「鎮守府将軍陸奥守 北畠顕家公銅像」
3.烏帽子姿は「歴史のごった煮」の中の、「悲劇の天才美少年・北畠顕家」から、
4.イラストは「bluewish」のあきさんからいただきました。















左から
1.「鎮守府将軍 藤原秀郷の錦絵」在所は栃木県佐野市
2.奥州3代藤原清衡の肖像在所は岩手県平泉
3.「浪岡城址」在所は青森県浪岡町
・宮城県山元町の藤原経清の館跡
・盛岡市の安倍氏の館跡
・浪岡町の浪岡城址の航空写真


10.浪岡姓/一族の分布

東北3県と北海道の「浪岡」姓の分布です。写録宝夢巣6で調べました。図をクリックすると大きくなります。また北畠関連の姓の分布も比較のために載せました。ご参考に!もっとも全員が北畠の子孫ではないことは言うまでもないが。少なくとも東北に固まる人達は子孫であろう。行岡と時岡は調べていないのでわからないが、行岡の分布は伊勢の国司だった北畠に合致する。

  浪岡姓は当然ながら、東北3県に多い。秋田県と岩手県は落延び先なので当然だが、青森県の三沢に多いのには驚いた。青森では三沢市と八戸市周辺に、岩手では二戸市周辺に、秋田では大館市周辺に固まっていることがわかった。岩手も秋田も旧津軽藩のすぐ隣で、一族は落延び先でも故郷に近い藩境に固まっていた事が良くわかる。これに比べると袰綿はやや遠い、一族が元々居住していたため地縁として落延び先に選び、為信が亡くなってから藩境の二戸に戻ったのではないか。調べる必要がある。大館の浪岡姓は秋田氏が宍戸に転封されたとき留まった慶好の一族だろう。
  しかし三沢−八戸に固まっている浪岡姓を見ても、北畠、浪岡一族は津軽藩との藩境に固まっていた事がわかる。しかしこれでは隣藩にまで刺客を送ったと言われる津軽為信にすぐ見つかってしまったのではないかと思うのだが。いつか調べたい。    しかし浪岡姓が多過ぎる、全て北畠の一族とは思えない。NTTに電話が登録されている最新情報では沖縄にも1世帯在住する。これは一族の転勤族か、それとも偶然同じ姓なのか?東京にも管理人の知らない浪岡姓がかなりある。大阪の浪岡姓は三春浪岡系だろう。
  袰綿姓はもう既に袰綿には全く在住せず、盛岡を中心に東京にも在住する。
  浪岡は北海道にかなり存在する。釧路に最も多いが何故であろうか?旭川、北見、函館にも在住するが、明治維新後に渡った一族だろう。興味深い情報がある。文民宰相「原敬」は盛岡藩の家老の孫だが次姉磯子が嫁いだ先が南部藩の稗貫郡の新堀村で300石の家柄の波岡顕義といい、その後顕義は明治維新後に行方不明になり残った家族は北海道に渡ったとある。「原敬事典」に書かれている。驚きである。家老の家柄の娘が嫁ぐ先はある程度の格式か家柄がなければならない。北畠の子孫で300石の家柄だったそうなので遜色はない。この家族が北海道に渡ったのは、恐らく明治維新で時代の変化に乗れず、没落したからであろう。この波岡は「顕」の字を用いているので、「茂」を用いる苫前/厚岸の波岡とは違う一系だろう。「波岡」ではなく「浪岡」ではなかったかと思うのだが(もし原敬首相が浪岡と波岡を区別していなかったとしたら)。 当家の津軽浪岡家の一族は東京以外は北海道の岩内と札幌に分布している。
  また明治維新後、苫前、厚岸、礼文で僧職についていた波岡一族が、今でも厚岸と礼文で僧職を守っている事がご子孫からの連絡で確認できた。嬉しい話である。いつか残されている系図を見せていただきたいものだ。叔父が調べた系図とおり互いの先祖が兄弟なら、当然津軽浪岡家の事にも触れているのではないかと推察できるからである。
  昨今の転勤が多いサラリーマンが増えてくると、移動が激しくなるため、本貫を調べることは難しくなってくる。それでもまだ、なんとか推測はできる状態ではある。今の内に調査が必要だろう。

下記の地図はクリックすると拡大画像になります。どうぞ!


浪岡、波岡一族からの連絡

このサイトをご覧いただいた浪岡や波岡の子孫の方々から時折メールを頂きます。うれしいものです。
 ・波岡のご子孫の方からは、今でも僧籍についておられる叔父さんがいらっしゃるとのことです。
    古い文書/過去帳があると先祖のどこから浪岡と分家したかわかるのですが。
 ・青森に住んでいる浪岡さんからもメールがありました。跡取りは武左衛門家と同じ権六です。
    しかし武左衛門ではなく武右衛門を名乗るそうです。武左衛門家と先祖が同じ可能性が極めて大です。
    また本姓の姓名の名前に使う字は、武左衛門家は先祖の右近顕則の「則」ですが武右衛門家では「豊」のようです。
    波岡は「茂」、三春浪岡は「季」です。しかし現代では、少なくとも武左衛門家や三春浪岡ではすでに使っていないようです。
 ・また岩内の従兄弟からもメールがありました。
 ・水木のご子孫からもメールをいただきました。