浪岡氏とは、21才で戦死した北畠顕家の子孫が、陸奥の元国司、名門北畠の出自をバックに津軽の新参土豪として、再起を図ったものといわれているが、もともと在地の浪岡氏の娘を娶り浪岡を継いだとも伝えられている。南部氏の支援のもとで一時はかなりの勢力を誇ったが、内紛から結局自滅し最終的に大浦為信に滅ぼされ、浪が岡に上がって消滅するように、一族は離散した。それでも津軽、南部、秋田藩の中でそれなりに命脈を保ち、現在でも系譜は絶えることなく続いている。
しかしなにぶん昔のことであり、戦国時代は下克上、政略結婚、養子、改名、滅亡などの連続で100%正しい系図などあり得なく、諸説紛々であり、捏造、偽系図も多いだろう。例え系図は正しくとも血統は繋がっているかどうかでさえ定かでない。常に残るのは勝者の歴史で、敗者のものはひっそりとアングラの世界で語り継がれる。浪岡北畠も例外ではない。
水戸黄門が大日本史を編纂する際、津軽家は北畠を滅ぼしたいきさつが書いてある書物を城内はもとより神社仏閣にいたるまで徹底的に焚書した。津軽為信が豊臣秀吉に津軽の地の所領安堵をもらった際に、昔から津軽は津軽家の領土であったとウソをでっち上げ朱印状を掠め取ったが、この津軽を簒奪したいきさつが不当なものであることが知れて廃藩になることを恐れた、と言われている。この津軽氏の大蛮行によってこの時代の資料がなくなり津軽の歴史の一部は極めてわかりにくくなり、我が浪岡北畠の歴史も諸説紛々する原因となった。
それでもルーツを探るのはロマンである。どうせ100%の真実は誰にもわからなく、もはや歴史推理小説なのだから!!
|